突然だが、少しだけ思考実験にお付き合いいただきたい。
問1:バットとボールは合わせて110円。バットはボールより100円高い。では、ボールの値段はいくらだろうか?
多くの人が「10円」と答えたかもしれない。しかし、落ち着いて計算すれば、正解が「5円」であることに気づくはずだ 。もしボールが10円なら、バットは110円となり、合計は120円になってしまう。
では、なぜ多くの人が直感的に間違えてしまうのか。
それは、私たちの脳が、じっくり考えるよりも早く、楽な近道を選ぼうとする「思考のクセ」を持っているからだ。
「あとでやろう」と決意したはずの宿題が、気づけば夏休みの最終日に手付かずのまま積み上がっている 。
「もったいないから」という理由だけで、ちっとも面白くない映画を最後まで観てしまい、貴重な時間を無駄にしてしまう 。
告白すべきか、勉強に集中すべきか。二者択一のようで、本当は両立できるはずなのに、なぜか袋小路に迷い込んでしまう 。
こうした経験に、少しでも心当たりはないだろうか。
もし、これらが単なる意志の弱さや計画性のなさではなく、先ほどのクイズのように、人間の脳に深く刻まれた「思考のクセ」のせいだとしたら?
今回紹介する一冊、大竹文夫氏の『あなたを変える行動経済学』は、そんな日常に潜む「なぜか合理的に動けない」という悩みの正体を、鮮やかに解き明かしてくれる羅針盤のような本だ。
◆あなたの行動を裏で操る「3つの思考のワナ」
本書は、決して難しい数式やグラフが並ぶ専門書ではない。危機感が持てずに悩む高校生の相談から、私たちの誰もが経験する身近なジレンマまで、具体的なエピソードを通して行動経済学のエッセンスを紐解いていく。その中でも特に、私たちの日常を縛る強力な「思考のワナ」を3つ紹介しよう。
ワナ1:「もったいない」の呪縛(サンクコスト)
部活動で思うような結果が出せずに引退し、悔しさから次のステップへ進めない、という悩み。これは多くの人が経験する壁だろう。しかし本書は、その「もったいない」「これまでの努力が無駄になる」という感情こそが、「サンクコスト(埋没費用)」という思考のワナなのだと教えてくれる 。
サンクコストとは、すでに支払ってしまい、もう取り戻すことのできない費用のこと 。つまらないとわかっている映画のチケット代も、これまで部活に費やしてきた時間も、すべてはサンクコストだ 。合理的に考えれば、そのコストは未来の判断材料から切り離すべきなのに、私たちは「元を取りたい」という気持ちに引きずられてしまう。
かつて福沢諭吉が、必死で習得したオランダ語が役に立たないと知った時、彼は落胆しながらもそれを「サンクコスト」と見切り、英語の学習へと舵を切った 。その決断が、その後の日本の歴史を大きく動かしたことを考えれば、過去のコストに囚われることがいかに大きな機会損失を生むか、痛感させられる。
ワナ2:「損したくない」という強力なブレーキ(損失回避)
もう一つ、私たちの判断を大きく歪めるのが「損失回避」という特性だ。私たちは、
同じ金額であっても「得をする喜び」より「損をする悲しみ」の方を、約1.5倍から2.5倍も強く感じるようにできている 。
本書で紹介されるコイントスの例は、それを如実に物語る。 「A:確実に1万円もらう」か「B:コインを投げて表なら2万円、裏なら0円」。この場合、多くの人が安全なAを選ぶ 。
ところが、「A:確実に1万円支払う」か「B:コインを投げて表なら2万円支払い、裏なら0円」。この場合、多くの人がBのギャンブルを選ぶ傾向にあるのだ 。
内容は同じ「1万円」の価値のはずなのに、「もらう」局面ではリスクを避け、「支払う」局面ではリスクを取ってしまう。この「損をしたくない」という強烈な感情が、私たちを非合理的なギャンブルへと駆り立てることがあるのだ。
ワナ3:「あとでやろう」の甘いワナ(現在バイアス)
そして、おそらく最も多くの人が悩まされているのが、「やるべきことがあるのに、つい先延ばしにしてしまう」という永遠の課題だろう。これもまた、
「現在バイアス」という脳のクセが原因かもしれない 。私たちは、
「遠い将来の大きなご褒美」よりも、「目先の小さな快楽」を優先してしまうようにできているのだ 。
夏休みが始まる前は「すぐに宿題を終わらせて、あとは思いっきり遊ぼう」と計画するのに、いざ休みが始まると「今日くらいはいいか」と先延ばしにしてしまう 。これも典型的な現在バイアスだ。
本書が紹介する「70の法則」は、そんな先延ばし癖に一石を投じる。
毎日たった1%の成長を続けるだけで、70日後には実力は2倍に、1年後にはなんと32倍にもなるという 。逆に言えば、何もしない人との差は開く一方だ。この事実を突きつけられた時、ぼんやりとしていた未来への危機感が、少しだけ輪郭を帯びてくるのを感じるはずだ。
◆「思考のクセ」を味方につける武器「ナッジ」
この本が優れているのは、単に「人間の非合理性」を指摘するだけにとどまらない点だ。その思考のクセを理解した上で、いかにして「より良い選択」をしていくか、そのための具体的な武器=「ナッジ(nudge)」を授けてくれる。
ナッジとは、「そっと肘でつつく」という意味の言葉。選択の自由を奪うことなく、人々をより良い方向へ自発的に導くための工夫のことだ 。
例えば、ある病院では看護師の残業が問題になっていた。そこで、日勤の看護師は赤、夜勤は緑とユニフォームの色を分けた。すると、日勤の時間帯に緑のユニフォームを着ていると目立つため、「早く帰らなければ」という意識や、周りも「あの人は残業中だから頼み事を控えよう」という配慮が働き、残業時間が劇的に減ったという 。
これは、周りの行動に合わせようとする「社会規範」を利用した、見事なナッジの例だ。
- ダイエットが続かない? → 「将来痩せる」という遠い目標ではなく、「毎日体重計に乗る」という即時的な行動を目標にする 。
- 貯金ができない? → 苦しい時に無理して貯めるのではなく、「毎月一定額を自動的に積み立てる」というルール(デフォルト)を設定してしまう 。
- 勉強に集中できない? → 漠然と「頑張る」のではなく、「月曜の夜7時から1時間、数学の問題集を5ページ進める」というように、いつ、何を、どれだけやるかを具体的に計画する 。
これらのナッジは、自分の意志の力だけに頼るのではなく、行動せざるを得ない「仕組み」や「環境」をデザインすることの重要性を示唆している。意志が弱いからダメなのではない。誘惑に負けてしまう脳のクセを前提に、戦略を立てればいいのだ。
◆この本が、あなたの「ものの見方」を変える
もちろん、この本を読んだからといって、明日から完璧な合理的人間に生まれ変われるわけではないだろう。長年染み付いた思考のクセは、そう簡単には抜けないものだ。
しかし、自分の悩みの正体が、自分だけの欠点ではなく、人間に共通する「バイアス」なのだと知るだけで、心は少し軽くなる。そして、そのバイアスを理解し、うまく付き合っていくための「ナッジ」という道具を手に入れることで、日々の小さな後悔は確実に減っていくはずだ。
なぜ自分はいつも損な役回りばかりなのか。 どうして、あの時あんな決断をしてしまったのか。
もし、そんな風に過去を悔やんだり、自分の不甲斐なさに落ち込んだりしているのなら、本書はきっと、そのモヤモヤとした霧を晴らす一筋の光となるだろう。自分の「脳のトリセツ」を知ることは、人生という航路をより賢く、そして心穏やかに進むための、最強の武器になるに違いない。
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