【書評】AIは敵か、味方か?『オードリー・タン が語る、絶望を希望に変える思考法

書評

「AIに仕事が奪われる」「社会の分断は加速するばかりだ」「未来はどうなってしまうんだろう…」

そんな漠然とした、しかし確かな重みを持った不安が、まるで濃い霧のように現代社会を覆っている。テクノロジーの進化は日進月歩で、私たちの生活を便利にする一方で、そのあまりの速さについていけない焦りや、得体の知れないものへの恐怖を感じている人は少なくないだろう。

そんな霧の中に、すっと差し込む一筋の光のような存在がいる。台湾のデジタル担当政務委員(閣僚)、オードリー・タン。IQ180の天才、トランスジェンダー、14歳で中学中退、33歳でビジネスから引退――。その異色の経歴ばかりが注目されがちだが、その本質は、深く、温かい思想を持つ一人の哲学者の姿だ。

今回紹介する『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』は、そんな彼女の思考の核心に触れることができる一冊だ。これは単なる未来予測の本ではない。テクノロジー解説書でもない。むしろ、私たちがこれからの不確実な時代を生き抜くための「心のOS」を、根底からアップデートしてくれるような、知的で刺激的な旅への招待状なのである。


なぜ台湾はコロナ禍を乗り越えられたのか?――信頼のデジタル化「マスクマップ」の衝撃

本書の冒頭で語られるのは、世界がパンデミックの渦に飲み込まれる中、台湾がいかにして迅速かつ効果的に新型コロナウイルスの封じ込めに成功したか、その舞台裏である。ロックダウン(都市封鎖)という経済的な打撃を伴う強硬策を避けながら、日常を維持し、GDPのプラス成長まで実現した台湾。その成功の鍵は、一体どこにあったのだろうか。

多くの人が、オードリー・タンが開発を主導した「マスクマップ」を思い浮かべるかもしれない。どこにどれだけマスクの在庫があるかをリアルタイムで可視化したあの画期的なシステムは、確かに大きな役割を果たした。しかし、本書を読み進めると、その根底にはもっと深く、もっと本質的なものがあったことに気づかされる。

それは、政府と国民の間の圧倒的な「信頼関係」だ。

2003年のSARSの流行という痛みを伴う経験から、台湾社会は学んでいた。危機に際して本当に重要なのは、一部の専門家が高度な知識を持つことではなく、「大多数の人が基本的な知識を持つこと」であると。政府は情報を隠すのではなく、徹底的に公開し、国民と共有した。人々はそれに応え、自ら考え、イノベーションを図っていった。

「マスクマップ」の誕生秘話は、その象徴だ。発端は、政府のプロジェクトではない。台南に住む一人の市民エンジニアが、近隣の在庫状況を調べて地図アプリで公開した、ほんの小さな善意の火種だった。その情報をチャットアプリで知ったオードリー・タンは、それを潰すのではなく、むしろ後押しするために動いた。行政が持つマスクの在庫データを一般に公開したのだ。すると、そのデータに触発された「シビックハッカー」と呼ばれる民間のプログラマーたちが、次々と無償でより良いマスクマップを開発し始めた。

これは、政府が国民を「管理」するのではなく、国民が政府を「活用」し、共に問題を解決していく姿そのものだ。トップダウンの号令ではなく、草の根から生まれたアイデアが、社会全体の力で大きなうねりとなっていく。オードリー・タンは、こうした動きを「For the people(人々のために)」から「With the people(人々と共に)」への転換だと語る。このエピソードだけでも、デジタル技術が持つ、社会をよりオープンで協調的なものへと変える可能性に、胸が熱くなるのを感じるはずだ。


「AIに仕事を奪われる」という恐怖への最終回答

本書の核心とも言えるのが、AIと人間の未来に関する考察だ。多くのビジネスパーソンが心のどこかで抱いている「自分の仕事はAIに代替されてしまうのではないか」という恐怖。その問いに対して、オードリー・タンは極めて明快で、そして希望に満ちた答えを提示してくれる。

結論から言えば、その心配は杞憂に過ぎない。なぜなら、AIは人間と敵対する存在ではなく、人間の能力を拡張してくれる最高の「補助ツール」だからだ。彼女は、スティーブ・ジョブズがかつて語った「精神的な自転車(Bicycle of the mind)」という言葉を引用する。自転車を使えば、人間は自力で走るよりもずっと速く、遠くへ行ける。しかし、それは自転車が人間より優れているという意味ではない。あくまで主体は人間であり、ツールはそれを手助けするものだ。

AIもそれと全く同じだという。単純な作業や、膨大なデータからパターンを見つけ出すといった仕事は、AIの方が人間より遥かに得意だ。ならば、そうした仕事はAIに任せてしまえばいい。そして人間は、人間にしかできない、より創造的で、より公共の価値を生み出すような仕事に専念すればいいのだ。

例えば、本の編集者の仕事を考えてみよう。1分間に何文字読めるか、という速度の面ではAIに敵わないかもしれない。しかし、膨大な言葉の中から独自の視点を抽出し、記事全体に活力を与えるような仕事は、AIにはできない。最終的な品質に責任を持ち、読者に価値を届けるのは、紛れもなく人間の役割なのだ。

このAIと人間の関係性を、オードリー・タンは「ドラえもんとのび太」にたとえる。この絶妙なたとえ話には、思わず膝を打った。ドラえもんは、のび太に命令したり、彼の代わりに何かをしたりする存在ではない。のび太が主体的に行動するのを、不思議な道具で「補助」し、彼の成長を促す存在だ。のび太はドラえもんがいるからといって、勉強や外出が不要になるわけではない。

これからの社会は、まさにこの関係性に近づいていく。AIという優秀なパートナーを得ることで、私たちは面倒な作業から解放され、もっと本質的な問いに向き合う時間を得ることができる。それは、仕事を奪われるというディストピアではなく、むしろ人間性が解放されるユートピアへの道筋ではないだろうか。


「誰も置き去りにしない」社会は、どうすれば実現できるのか?

本書を貫く最も重要な思想、それは「インクルージョン(包括)」という概念だ。簡単に言えば、「誰も置き去りにしない」という考え方である。この思想は、彼女の驚くべき行動力や数々のイノベーションの、まさに基盤となっている。

その姿勢が鮮明に表れたのが、コロナ禍で起こった「ピンクマスク事件」だ。ある母親から政府のホットラインに「息子がピンクのマスクをしていったら、学校でからかわれた」という声が寄せられた。それは、社会全体から見れば些細な出来事かもしれない。しかし、政府の対策チームはそれを無視しなかった。翌日の記者会見、指揮官をはじめとする閣僚たちは、全員がピンク色のマスクをしてカメラの前に現れたのだ。そして、「ピンクはいい色ですよ。私は小さい頃ピンクパンサーが好きでした」と笑顔で語りかけた。

このユーモアと優しさに満ちた対応は、瞬く間に台湾社会に広がった。多くの企業や個人が、SNSのアイコンをピンク色に変え、連帯を示した。たった一つの声から始まったムーブメントが、社会の同調圧力を軽々と飛び越え、「どんな色でもいいじゃないか」という多様性を尊重する空気を作り出したのだ。

なぜ、オードリー・タンはこれほどまでにインクルージョンを重視するのか。その答えは、自身の生い立ちにあるのかもしれない。生まれつきの心臓病、学校でのいじめ、そしてトランスジェンダーであるという自認。彼女自身が、常に「マジョリティ」の外側に身を置いてきた。だからこそ、マイノリティの声なき声に耳を傾け、その痛みや困難に寄り添うことができる。

デジタル社会の進展で、高齢者やITに不慣れな人たちが取り残されるという懸念がある。それに対し、彼女はきっぱりと言い放つ。「デジタルが高齢者に使いにくいのなら、使いやすいように改良すればいい」。人をシステムに合わせるのではなく、システムを人に合わせる。その発想の転換こそが、真に豊かな社会を作る鍵なのだと、本書は教えてくれる。

多数派の論理だけでは見えない景色がある。少数派の視点にこそ、社会をより良くするイノベーションの種が眠っている。そのことに気づかされたとき、普段見過ごしがちな日常の風景が、少し違って見えてくるはずだ。


この本は、誰のための「羅針盤」なのか

『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』は、読む人によって様々な顔を見せる本だ。

  • 未来への漠然とした不安を抱えている人にとっては、その霧を晴らすための具体的な思考法を示してくれるだろう。
  • 組織のあり方に悩むリーダーにとっては、トップダウンではない、共創型のチーム作りのヒントに満ちている。
  • 社会をより良くしたいと願う若者にとっては、小さな声でも社会は変えられるという、力強いエールになるはずだ。

これは、すぐに使えるノウハウやテクニックが書かれた本ではない。むしろ、物事をどう捉え、どう思考し、どう行動に繋げていくかという、根源的な「OS」を与えてくれる。だからこそ、一度読んだだけでは消化しきれないほどの知見が詰まっている。手元に置き、折に触れてページをめくることで、その時々の自分の悩みに応じた答えが見つかる、そんな「哲学書」であり「羅針盤」のような一冊だ。

最後に、本書で引用されている、タン氏が愛する詩人レナード・コーエンの一節を紹介したい。

すべてにひびがある。そこから光が差し込む。

完璧な社会など存在しない。問題だらけで、欠陥だらけだ。しかし、その「ひび」を嘆くのではなく、そこから差し込む光を見つけ、その光を広げていくこと。オードリー・タンの生き方、そしてこの本が伝えようとしているメッセージは、この一節に集約されているのかもしれない。

もし、今の社会や自分自身の状況に「ひび」を感じているのなら、この本は、そこから光を見出すための、最高のきっかけになってくれるに違いない。


未来への視界をクリアにする、知的な刺激に満ちた一冊。詳細は下記リンクからご確認ください。

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この記事を書いた人
専門社会調査士
ねっきー調査系おじさん

自称・ひとリサーチャー。
大学・民間団体において15年以上調査事業を担当し、はぐれ専門社会調査士として活動中。調査領域は主に防災・観光分野。興味があることは色々と調べるクセがあるおじさんです。

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